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救援投手の記録と、ワンポイントの歴史

多田 周平

 2015年のプロ野球は流行語大賞に「トリプルスリー」が選ばれるなど、さまざまな記録が注目を浴びました。
 中でもリリーフ投手に関する記録も目立ちます。リーグを制したソフトバンク、ヤクルトはともに絶対的な守護神を擁し、最終回へつなぐ勝ちパターンを確立。また、新人王に輝いたDeNA・山﨑康晃や、高卒2年目にして抑えの大役をこなした楽天・松井裕樹も今季を語る上で外せない選手でしょう。
 近年は投手の分業制が進み、昔よりもリリーフ投手の存在価値が高まりました。今回はそんなリリーフ投手について迫っていきたいと思います。

最多救援登板は中日・岩瀬

 まずは通算の救援登板数を見ましょう。最も救援登板が多かった投手は中日・岩瀬仁紀でした。2年目の2000年に1試合だけ先発していますが、それ以外はすべて救援。特にセーブ数は通算402と、他を圧倒する数字(2位佐々木主浩はNPBで286セーブ)です。来季も現役続行を表明しており、900登板まで数字を伸ばすことも考えられます。
 2位は巨人、西武で勝ちパターンの一角を担った鹿取義隆。リーグ最多登板を記録したのは1987年の1回だけでしたが、シーズン40登板を巨人で6度、西武で4度クリア。さらにリーグ優勝は巨人で4度、西武で6度とチームに欠かせない存在でした。

リリーフだけで生きる男たち

 次に見るデータは“救援率100%”の選手。つまり1回も先発登板がない投手です。NPBで一軍登板した投手は今季まで2902人ですが、その内先発経験0の投手は734人。全体の約1/4となっています。
 現在プロ初登板からリリーフでの起用が最も長く続いているのがソフトバンク・五十嵐亮太です。このランキングでは五十嵐を筆頭に現役投手が4人。「リリーフ専門投手」がしっかりと確立された近年の事情を表す結果といえるでしょう。

 ちなみにこの逆で救援経験0の投手は140人で、全体の5%ほど。特に助っ人の割合が多く、上位3傑はミンチー(187)、パウエル(173)、グライシンガー(132)。日本人投手に限ると野村祐輔(84=全体6位)、小川泰弘(70=全体7位)、武田翔太(60=全体11位)と、現役の若手3投手となりました。

空前絶後のリリーフで21勝!

 ここまではやはり近年の投手にスポットが当たっていますが、過去の投手にも触れてみましょう。そこで注目したのが「救援での勝利数」です。今でこそセーブ、ホールドなど救援投手の活躍ぶりを示す数字がありますが、NPBではセーブ導入が1974年、ホールド導入は2005年(パ・リーグのみ1996年からですが、現行と規定が異なり通算記録などには含まれず)。つまりかつては救援での活躍を評価する記録がなかったのです。

 シーズン別の救援勝利数を見ると、1位は60年の大毎・小野正一でした。この年の小野はリーグ最多の67試合に登板。先発22、救援45と今では考えられない起用の中、シーズン33勝をマークしました。当時は投手の枚数が少なく「いい投手から使っていく」という時代。そんな中、リリーフで21勝というとんでもない記録を残しました。

 また2位タイには「8時半の男」の異名で知られた巨人・宮田征典がランクイン。心臓疾患のためリリーフに専念せざるをえなかったという背景こそありましたが、V9の1年目となった65年に67試合で19勝(先発を含めると69試合で20勝)の成績をマークしました。リリーフ専門投手は当時では珍しく、この宮田が救援専門の元祖とも称されています。

「中継ぎ」のスペシャリストたち

 救援専門という話が出ましたが、次は“中継ぎ”に焦点を絞ってみました。先発でもなく、抑えでもなく、その先発と抑えの中を継ぐ投手。それが中継ぎです。
 この中継ぎでの登板数をランキングで出すと、トップは500試合に投げていた藤田宗一でした。2005年に日本一となったロッテでは「YFKトリオ」の一角として、日本一に貢献。「先発経験0投手」のランキングでも五十嵐に次ぐ2位にランクインしており、スペシャリストと呼ぶにふさわしい活躍を見せていました。

 ちなみに、この10傑では5位の五十嵐を除く9投手がすべて左投手となりました。いわゆる「左のワンポイント」と呼ばれるポジションでの起用が多かったと予想されます。

 次の段落からはこの「ワンポイント」に注目してみましょう。

1登板平均1.5人!ワンポイントの先駆者が残した記録

 ここでは年度ごとに「1登板あたりの対戦打者数」を算出。30登板以上の投手で最も平均対戦打者数が少なかったのは、1989年の永射保でした。永射は2年目の73年にサイドスローに転向すると、翌74年に移籍した太平洋(現・西武)でその変則っぷりを発揮。左の助っ人強打者たちをきりきり舞いさせました。ピンク・レディーのヒット曲「サウスポー」のモデルになったともいわれる、左のワンポイントの草分け的存在です。晩年のダイエーでの成績が最も顕著だったのはやや意外でしたが、この年は39登板で打者1人のみの登板が半分以上の25回。左打者には44打数11安打と平凡な一方で、右打者を9打数ノーヒットと抑えていたのも意外でした。

 また10傑までに唯一2度登場しているのが小林正人。通算の平均対戦打者数を見ても、100登板以上の投手では歴代最少と、左のワンポイントとして中日に欠かせない存在でした。左打者に対する通算被打率は1割台。中でもランキング4位となった2011年は同.092(76打数7安打)と、大きく曲がるスライダーを武器に圧倒的な成績を残しました。ただ右打者には通算被打率.332と、やはり“左殺し”のポジションが天職だったようです。

 左のサイドスローが多くを占めたこのランキングでしたが、中でも異色の存在といえるのは、唯一右投手でランクインしている木塚敦志ではないでしょうか。次は右投手に限定したランキングを見てみましょう。

「右のワンポイント」と呼べるのは、歴史上で木塚だけ

 右投手に限定したランキングを見ると、木塚が1位と10位にランクイン。ですが、やはり唯一2を下回っている2007年の数字の少なさが際立ちます。この年は76試合に投げ、打者1人のみの登板は33回。さすがに先ほどの永射のように半分以上とまではいきませんでしたが、右腕としては珍しい存在といえるでしょう。ワンポイントの登板では被打率.161(31打数5安打。対左打者の1打数0安打を含む)と、起用に応えるピッチングを見せました。

 木塚に次いだのはダイエー時代の長冨浩志。広島時代は新人王に輝いた本格派投手と知られますが、晩年は技巧派として活躍。特に00年は右打者を被打率1割台に抑え、チームのリーグ連覇に貢献しました。
 4位以下には最近10年以内の投手が並んでおり、「右のワンポイント」という役割は投手起用に余裕ができた近年ならではのポジションといえます。

 昔ではありえなかったワンポイントなど、近年は救援投手にスポットが当たっています。中継ぎの通算登板数歴代2位の巨人・山口鉄也は、来季の年俸が3億2000万円と、まさにこのポジションでの活躍で一時代を築いた選手といえるでしょう。地味な存在ではありますが、救援投手の活躍こそが今日のプロ野球には不可欠なのかもしれません。